ルームメートの一人は僕と同じ、来学期交換留学に行く。もう一人は学業もう終わったので今学期先に卒業する。空っぽな寮の部屋の中に「大学生活も終わったね」とすごく感じた。
台湾の中学は日本と似ている。入学の時みんなクラスを入って、その後の長い時間でクラスメートはほぼ変わらない。唯一のクラス変換は高校の時、高校一年の最後に「一類生」、「二類生」と「三類生」を区別して、自分と同じ分類の生徒とクラスメートになる。でも僕の状況はちょっと違う。中学も高校も「特待生クラス」に入ったので、このクラス変換の機会もながった。
元々僕はもっと陰キャ側な人、普段はいい友達以外な人とほぼ交流しない。このクラスシステムを加えて、同じクラスメートは三年ずっと一緒なので、別に交流しなくても仲良くなる。長い時間に人と交流しながった結果は、「コミュ障」な人になった。
これを意識したのは大学を入った初め頃。みんなは歓迎会とか、寮のコンパとか参加したのに、僕は一人で図書館にウエブサイトを作った。三ヶ月後、「これじゃダメ」とようやく認識した。その時みんなは科の合宿の準備をやっているけど、スタッフ募集の期間はもう終わったので、参加するのはもう遅かった。幸いに先輩を聞いた後にすぐスタフとして受けたから、重要な大学一年の合宿を参加してきた。
それから、せめて人と交流するのは本当に精一杯頑張った、この合宿も3回参加してた。まだ陽キャになっていないけど、おかげで「コミュ障」の症状はほとんど消えた。でも最近なんか副作用なものが出た、そしてこれわ多分コミュ障を乗り越えた後、一番悩んだことだ。
「話の限界」を捕まえなくなった。いいえ、多分元々捕まえない、ただ話が多くなたのでこの現象が現れたんだろう。この一年間、他人が受け入れない冗談をして、その人に怒られた状況がよくある。怒られない場合、自分はその後によく考えば、「なんか不適なことを言った」と感じていた。時々はその人たちに申し訳ないと思うけど、時々は「これが面白いになる代価」と思う。そもそも人はどうやって「話の限界」がわかるんだろう?
自分は元々あんまり怒らない人なので、たとえ誰が僕が嫌い冗談をしても我慢する。本当に受け入れない場合、1っ回目は「それはライン超え」と明かす、次にやったら怒る。でも多数の人は1っ回目でも怒る、だからその「ライン」の位置はその人の生活と話から推測しなくてはいけない。そうすれば、しゃべる時は頻繁的に他人の気持ちを気をつけて、集中できないでしょう。そして自分もそんな余裕はないし、次の話題を考えるだけで脳が疲れる。
時々は「完璧な人になるのは難しい」と思う。もっと他人と交流できるために自分の話を面白くしたら、他人が怒られる;もっとプログラミングの問題を解決できるために理性に問題を考えたら、理科脳(?)になって、この文章の状態になる。例え今この問題を解決しても、また新しい問題が出るじゃん。別に完璧になりたくない、自分もそれが不可能だと思う。でも「進歩」の終点はやはり「完璧」でしょう、そして自分はクリアじゃない目標はしないから、適当に「完璧」とゆう目標を設立した。
まもなく卒業する今の僕は、もう完璧になりたくない。やがて自分は楽しいことが一番重要なこと、例えその代価は完璧にならなくても、進歩しなくてもいい。のんびりに自分がしたいことをして、学びたいことを学んで、それが今年からの生き方だ。